子どもの感受性はどう育つのか
毎年この時期になると豆まきのニュースが流れます
本記事ではないのですが別のテレビニュースでは一年生クラスで
盛大に豆まきが行われていたものが流れた
その中の一人が号泣している姿があったのだが友達が必死になだめている
「あれは本物の鬼ではないので怖くないよ」と
生まれ月の差はあろうが同じ一年生でも豆まきの鬼が怖いと思う子どもと
本物の? 鬼ではないと見抜く子どもがいるのだ
絵本らいぶをしていると怖い絵本をねだる子どもと、ほんとに怖い絵本はやだっと
言う子どもがいる
単に怖がりとそうでもない、の違いなのだろうか
はたまた「感受性」の違いとなるのだろうか
時々思い出す事がある、自分の体験だが小学一年生時に当時校内映画という事で全児童が体育館に集まり映画を見せてもらったものだ
映画タイトルは忘れたがある映画をみていてあるシーンで号泣してことがある
これは今でもそのシーンを思い出すので自分の中では相当強烈な思い出だったのだろう
これも定かではないがそのシーンはたぶん飼っていたうさぎが死んでしまい、飼い主の子どもが泣きながら穴を掘り埋葬しているシーンだったと記憶している
そのシーンを見て泣く子どもと同じように自分も大粒の涙を流して泣いていたのだ
涙が止まらず自分でもどうしてよいか分からない状態だ
その時隣にいた男子が「スクリーンではなく映写機の方をみていろ」
と言ってくれそれに従いやっと泣くのを止めることが出来た
大人になってこのシーンを思い出し不思議に思ったことがある
自分の中でなぜこのシーンで号泣したのか、他にも泣いた子もいたかもしれないが、冷静に自分にスクリーンの方を見るなと言ってくれた子どももいたのだということを疑問に思う事になった
当時我が家でうさぎを飼っていたのかもしれない、その死を体験していたのかもしれないがそうだとしてもその記憶は全くない、とすると生き物の死に対する感情は何時育まれたのだろうか
父親は自分が生後三か月後に病死し、母親はたくさんの子どもたちを育て、過酷な農家の嫁として日夜働いていた、そんなことで「父母の愛情たっぷり受けた」子ども時代ではなかったと今でも思っている
自分の長男の結婚式の結びの自分の言葉で
「父親がいなかった自分が父親になれるのかとても不安だった」との挨拶で
長男はこちらを振り向き
「親父、おれはちゃんと育ったよ」と言ってくれた
子育てしなかったと公言しているが子どもなりに育ったのかもしれない
子どもの感受性は いつ・どこで・どうやって 育まれるのか
自身の事で考えると「環境」もあるのかと思うがどうもそれは比が少ないように思う
では何だろうか、絵本を読むようになったのはこの辺にも理由がありそうだ
多少強引な閉め方で申し訳ない
絵本を読んでもらったことがない身だが、突然絵本を読むようになったのは
今更だが絵本を読む事で「感受性」を育てることになると思ったのかもしれない