プリズン・サークル No1
コロナウイルスで社会活動がいろいろ
変わらずを得なくなった
映画館で映画をみることも制約が出てくる
そんな中一時的に映画館が三密対策で閉館
され、公開中・予定されていた作品が見れなく
なり映画館支援のためネットで作品を見る
「仮設の映画館」という方式が始まった
ネットで支援したい劇場を選び料金を払うと
劇場側にも支援との形になるようです
自宅にいながらPCにて作品が見れます
最近はPC画面をそのままテレビに写す
ことができるようになりました
我が家もPC→TVをHDMI接続して見ました
音声はオーディオシステムから流れてくるので
43インチTVでも結構雰囲気はでます
部屋の明かりを落とし鑑賞すると作品に
集中するができ楽しめました
今回はここからが本題です
この映画を見た人達がzoomにて感想を述べ合う
機会があり参加させてもらいました
続きは こちら で読んでくださいね
プリズン・サークル No2
この投稿はNo 1 から続きます
映画「プリズン・サークル」を見た人達が
zoom を使ってその感想をシェアをする
イベントに参加させて貰いました
映画は刑務所を二年間に渡り取材をした
ドキメンタリーです
「島根あさひ社会復帰促進センター」という
刑務所の詳細は映画HPにて詳しく書いてあります
のでそちらを見てください
TC(セラピューティック・コミュニティ)という
グループを作り自分に向き合い、自分をさらけ出し
他者からも質問をもらい、さらに自分を掘り下げる
(この説明が合っているかわかりません、すみません)
そんな対話が繰り返し続いている(ようだ)
この映画を見ていて、あとで知ったが参加自由らしい
のですが、やはり刑務所なので「限りのある」参加自由
ではと思ったものです
個人的感想ですが
自分がここにいたら、こんなふうに自らを語れる
ものか? 語っても本当のことなど話はしないし
指導者の気にいるように話すのでと思った
zoom ではそのような「演技」(表現は違います)
では指導者に見透かさられる、との意見も
ありました
つまり進んで自らの内面を吐露せざるような
雰囲気? となっていくようです?
自分の事なので恐縮ですが、自らを他人に
さらけ出すことなどは全くもって不得意な
人生を歩んでいるので「自分をさらけだす」
ことなど繰り返すが自分にとってはあり得ない
ことでは、などと思うのです
刑務所という特殊な環境のなせる事柄なのか
プログラムが巧妙? に作られているからなのか
「犯罪」に手を染めた人達だが、もっと早く
ここに入る前にこのプログラムを受ける機会が
あったならばその人の人生も大きく変わった
のではと思うと、残念な思いも湧き上がりました
「教育の機会」などと言ってしまえばそうだが
そんなことはこの世の中ほかにもたくさんあり
そうですね
メジャー系映画を見ていると夫婦が気軽に
「カウンセリング」を受けたり会社の社員が
カウンセリングを受けるように上司に言われる
シーンが出てきて「カウンセリング」という
のは特別な事をしてもらう、わけではない
という雰囲気が作られているやに思うが
日本では近年こそ「カウンセリング」など
で自分の事を聞いてもらうことが知られてきたが
やはり何か特別な事のように感じられる
親子間・夫婦間 でもお互いもっと自分の
ことを知ってもらうことができるようになると
良いと思うのだが、そんな事を考えるのは
自分だけなのだろうか
人様にわが事を知ってもらう・・・
プリズン・サークルを見て切に思う次第です
絵本を読める幸せ
コロナウイルスが出てから各種のイベント・講座
が延期や中止になり3ヶ月間絵本を全く読めない日々
が続きました
絵本が読めないくらい自分にとってはそうは大きな
問題ではないだろうと思ってはいたのでしたが
意識出来ない中でやはり鬱々とした感情がわいていました
6月に予定していた短大の授業も出来ないと思って
いたのですが、感染の落ち着きが見えたことで
リモート授業と教室での授業を担当科目ごとに
隔週で行う事が5月に決まったのです
リモート授業の担当だったのですが、お願いして
教室担当の講師さんと代わってもらい
40人クラス2コマを教室での授業で行いました
好評の鯉のぼりマスクをしたまま絵本を読む
のは初めての経験です、読んでいると口を
上下させるのでマスクが下にずれてきます
時々鼻下に落ちるマスクをあげながらの90分間
絵本もこの日は10冊以上たっぷり読みました
読む間にはワンポイントを話して普段思って
いる事をお伝えしました
恐らく絵本授業というものはそんなに受けていない
と思われる学生さんにはふくちゃんの絵本らいぶ
はどのように捉えられたか興味あるところです
今回のコーデネーター役の人から
「ふくちゃんの読み聞かせは独特の間がある」
などと言われました
読み聞かせって「間」も結構大事な点になると
考えています、これは現場で実践していく中で
養われていくのでは思っています
絵本を読んで1000回、こんな所に生きています
90分授業を2コマ連続さらに3ヶ月ぶりのことなので
疲れが出るのではと思ったのですが、終わった後の
爽快さ、リフレッシュ?、などありありと感じることが
出来ました
何回も言っているのですが
絵本を読めることは【普通】のことではなく
こういう情勢になって気がつきました
なんと幸せなことかと
今回の授業に使ってくれた人や
これまで絵本を読む機会・講座を行う機会を
与えてくれたすべての皆さんに感謝いたします
ほんとにありがとうございます
感謝の言葉だけでは足りないので
過去に絵本らいぶ・絵本講座で呼んでいただいた
皆様、これから大勢の前で絵本を読める
状況になった際には、講師料を気にせず
お声がけいただけるようでしたら
喜んで参じたいと思いますので
ぜひせひ ご検討お願いします
「ありがとう」を言えるようになったのは
人間性が出来ているかと問われたら
いゃーそんなことはありません
と自分は答えるだろうな〜
だからというわけではないのかもしれないが
「ありがとう」と言う言葉はあまり使えませんでした
もちろん自分が何かしてもらった時にはお礼の意味で
ありがとう、の言葉は使っていました
ある時バスに乗っていたら先に降りる女子高校生が
運転手さんに向かって
「ありがとうございました」
と言って降りて行きました
この場合の「ありがとう」は
事故なく無事に目的の停留所まで運転してもらって
ありがとう、なのか?
単に「乗せて」もらって
ありがとう?でしょうか
多分そんな屁理屈など考えずに
ありがとう、と自然に言っているのが
彼女の日常なのかもしれません
この光景に出会ってからは自分も
使って見ることにしました
しかし元来へそ曲がりなので、やはり
しっくりこない、ありがとうは言い難く
これも出会った光景ですが
コンビニで支払いを終えたご婦人が
店員さんに「お世話様」と言って去りました
これはカッコいい、確かに買ったものを丁寧に
袋に入れて持ちやすいように先をくるっと縛り
渡してくれた
これなら使えると、以後事あるごとに
「おせわさま」を使っています
これを使い始めたらバスの降車時では
お世話様
お店でラーメン頼んでテーブルに運んで
もらったら「ありがとう」などと言えるように
なりました
ありがとうと自ら言うのではなく、お客の立場
何だから相手が「ありがとう」を言うのが正しい
などと思っていたのですが
なんと器の小さきことかと猛省をしたものです
これは錯覚と思いますが
「ありがとう」「お世話様」を言えるようになったら
対人間関係も多少滑らかになった気がしています
バスの高校生とコンビニのご婦人に
「ありがとう」
絵本画像選択でamazonサイトに行きます
「新生活様式」での読み聞かせ
【画像は出番を待つ我が家の絵本達】
コロナウイルスの影響で絵本の読み聞かせ
にも影響が出ている
自分も3月から全く絵本を読まない生活に
なってしまった
「新生活様式」なる言葉が発表されてから
読み聞かせにも影響が出てくるようになった
そもそも三密状態は避けなければならない
ので集団への読み聞かせは出来ない
自分は「わが子に絵本を読んであげなかった」
ことを看板?にして子育てには絵本を読んで
ほしいとの思いを「絵本らいぶ」「絵本講座」
で伝えることを15年間続けてきた
そんな経緯で自宅で子どもを抱いて絵本を
読む経験・体験を全くしないまま
いきなり保育園の年長クラス30人に絵本を
読むことからスタートした
その後書店・子育て支援センター・デーサービス
保育園・幼稚園では子どもたちだけではなく
親子が100人以上集るときにも絵本を読んでいた
いつもいつも「集団」への読み聞かせが主で
10人以内程度の人数向けは少ないのです
コロナウイルスの影響で「集団」という現象
を避けなければいけない世の中になり気がつきました
自分は
「絵本の読み聞かせ」はいつも集団の中でしていた
ことを
3月から読み聞かせが全く出来なくなり
自身のフラストレーションはかなり溜まって
しまいました
話は変わり
全ての子育て世帯で日常的に子どもに絵本を
読んであげるようになっていたら、自分は
必要とされていなかったかもしれません
わざわざ絵本を読むだけの人を呼んで
読み聞かせなどしてもらわなくても
良かったかもしれません
さらに世に活躍している「読み聞かせボランティア」
さんも登場しなかったかもしれません
発想を変えれは
集団でいることができなくなり
大勢への「読み聞かせ」が出来なくなった
今こそ家庭で絵本を楽しんでほしいと
思うのです
本来の絵本の役割と言える
「お家で親子が楽しむすがた」
このことにみんなが気がついて
絵本を楽しむ家庭が増えれば
読み聞かせの機会がなくなった
などと自分は嘆くこともないのではと
思う
そうなればきっと
子どもたちが過ごしやすい家庭や社会に
なって行くのではと希望する