読み聞かせの「初心者」「上級者」?
読み聞かせ講座で時々聞く言葉
「初級編」「上級編」
という言葉
何となく聞いたり見たりしていたが
これがなかなか曲者だ
読み聞かせをするのに
「初心者」「上級者」
はどこがどう違うのか良くわからないが
何となく、使っている
ではどんな時に使うのかと言えば
「1:複数」の一人の読み手が多数の聞き手
を相手に読むなどの現場で
保育園や読み聞かせ会などでの場合です
初心者は
読み方が慣れていない
絵本のめくり方が慣れていない
読む絵本(選書)に慣れていない
聞き手に伝わりにくい
などがあるかもしれません
が・・・・
上級者になると
上記のことに慣れている(上手い)
のでしょうか
実は決まりごとはないと思っています
究極の読み聞かせの方法
と言うのはありません
みんな、そんなことだろう
と言う程度のことかなと自分は思っています
では家庭で親が子どもに読む場合の
「1:1」読み手が一人で聞き手は一人とか
兄弟一緒の二人とか、の場合には
「読み聞かせ」初心者
などと言う言い方は適切ではありません
お家で親子が絵本を楽しむのに
初心者も上級者もありませんし
そんな言い方は存在しなくて良いのです
読み聞かせに慣れていない、とか
読み方下手とか、全く気にすることはありません
お家で親子が絵本を楽しむ場合には
不要な表現なのです
よって
絵本の読み聞かせ講座
初心者編とか上級者編は
読み聞かせ会などで読む人たちに向けた
技術的な知識と「絵本」そのものを知る
お勉強と考えています
それはほんとうか?
ふくちゃんは
様々な場所と聞き手、人数を相手に読んでいます
先ほどの「上級者」「上級編」との言い方には
あまりこだわりはありません
が・・・・
絵本を読むだけでオファーをもらっています
人気があります(本人談)
読む技術や絵本そのものはあまり知らなくても
依頼が来ます、ありがたいことです
なぜか?
それはまた次の機会に
または絵本講座に参加して見てください
画像は支援センターでのひとコマ
お母さんが子どもを抱っこしてあやしつつ
片手で絵本を持ってもう一人の子供に
絵本を読んであげています
ふくちゃんがこのお母さんにかけであげる言葉は
読み聞かせの達人といっても良いです
初心者や上級者などの表現は似合いません
小学校でで自分のこどものクラスに入る時は

古くて新しい問題かもしれません
小学校で読み聞かせボランティアとして入る場合
自分の子どもがいるクラスで読むか、はたまた
自分の子どもがいるクラスには入らない(入れない)
など今も時々聞きます
自分の子どもが通っている小学校に読み聞かせボランティア
として通う時先ほどの問題で悩む方がおります
自分が知る限りでは
自分の子どものクラスには入れない(ルール化)
自分の子どもが嫌がって拒否するので入らない
自分の子どもがぜひ自分のクラスでも読んで
欲しいと親にお願いするのではいる
特に決まりがなくローテーションで自分の子どもの
クラスに入る場合もある
などと大別されるようです
結果的に自分のこどものクラスに入っている分には
特に問題はないと思います
入らない、入れないなどの場合はその理由に
自分の子どもが嫌がっている場合は
ひよっとして自宅で親子で絵本楽しむということ
またはそもそも親が学校に来ること自体を嫌がって
いるのかもしれません、これは親子の問題でしょうか?
興味あるのは
自分の子どものクラスに入ってはいけない
というルールがあるところを聞いたことがあります
その理由が面白い
「特定子どもの親だけが自分の子どものクラスで
読み聞かせをするのは他の子どもと不公平が生ずる」
とのことです
徒競走で順位をつけるのは不公平?となる・・・
に通じるものがありましょうか
個人的な意見を述べます
本来、開かれた学校を目指し、祖父母が学校に
出入りすることを良しとしているならば
理由の如何にかかわらず祖父母が我が子や孫
のクラスに入ることをルールとして拒否すべきでは
ないと考えます
それが絵本の読み聞かせもしかりです
願わくば毎授業でだれかの父母が授業参観
で入っている光景が日常になれば
(決して問題のあるクラスなので見守る
ということではなく)
読み聞かせは自分のこどものクラスには
入らない(入れない)
などと言ったことにはならないと思います
どんどん自分の子どものクラスで読み聞かせを
して欲しいと願っています
そうすれば気軽に学校に、自分の子どものクラス
の様子をしることもできますからね
絵本を楽しむ新しいかたち





絵本らいぶを続けているといろんな展開があります
主催者様のご縁でハーモニカ奏者の 倉井夏樹 さんと
絵本らいぶをすることができました
幼い頃からハーモニカを演奏して今や日本だけでなく
世界を羽ばたく奏者です
ハーモニカを演奏と聞くと思い描くものがあると思いますが
そうではありません
画像は彼の座る所にある楽器の数々です
ハーモニカ以外にもいろいろあります
エフェクター(電気的に音を変える)もあります
道具を見ただけで、すごさが?わかります
そんなプロの方とのコラボはどうなるのか
と思っていましたが
すばらしい
の一言でした
なっちゃんは初めて見る絵本ですが
ちゃんとその絵本の世界に合わせて音を作って
くれるのです、これはたまりません
ただ絵本読むだけの自分は快感てんこもりです
これはもう実際に見て聞いてもらわないと伝わりません
良いステージを作っていただきました
ありがとうございました
幸せの四つの条件
1 戸外での生活
2 一人の人間の愛
3 あらゆる野心からの超越
4 クリエイティブであること
作品中に出てくる「幸せの四つの条件」
パオの言葉とのこと
パオについては詳しい人から解説をして
欲しいものですが、どうでしょう?
35年ぶりに突然であった二人は
高校・大学と付き合ったがその後は
二人とも別々の人生を歩んだ
その二人が偶然会う
その偶然会った時間と当時を綴った
作品です
幸せの条件の中で
「一人の人間の愛」とあります
「一人からの愛」があれば幸せの4分の一
は手にできるということなのでしょうか
「一人の愛を常に感じていられる」
というのは何ともそれだけで幸せ感
一杯ではないかと思ったりもしますが
歳を重ねてくると「幸せ」という言葉は
とんとご無沙汰のような気がします
カマス理論・学習性無力感
映画 「12ヶ月の未来図」を見ました
エリート校の先生が田舎のやる気のない
生徒たちだけの学校に行くことになり
教えてもわからない
学ぶ気力もない
そんな子どもたちに呆れた先生だが
作品の中でとても面白い言葉に出会った
半世紀も前なので今更ですが、自分は
学ぶことを諦めた中学校時代でした
ほとんどの教科が分からない
先生の言葉はさながら訳のわからない
外国語に聞こえたものです
一度つまづくともうその先は理解しょうと
言う気力もなくなり、以後全く無駄な授業
時間を過ごすこととなった
そんな中でも記憶に残っている出来事が
あった
ほんのわずかな「ヒント」「解き方」を
教えてくれた人がいて、それが驚くほど
簡単なそしてシンプルだが納得してしまう
ものだった
「教える」「学ぶ」と言うのは
教える側と学ぶ側の双方が同じ
フィールでにいないといけないのでは
とその時に思ったのです
どんなにすごい教えでも
学ぶ側がそのフィールドにいないらば
どうやって来てもらえるのか
その努力を教える側がしたら良いのだと
自らのことを責任転嫁するような話だが
今はその思いを心がけている
こちらは分かっていることなので
当たり前な気持ちで話しているが
聞き手がそうではないならば
わかるように話さなけばいけない
だれもが聞いてもわかる
今自分はそんな講座を心がけています